上野敏郎の | |
上野敏郎の今週のコメント |
第1279回普段着のとかちミーティング |
開催日 令和2年8月21日(金) 話 題 とかち・消えた学び舎の風景[143] −池田町立川合小学校− (1948〜1995) |
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≪あゆみ≫ ■昭和23年 4月23日、池田町立昭栄小学校分校として設置認可が下りる。 8月5日、池田町立川合小学校として議決変更。(校名変更) 11月28日、池田町立川合小学校として開校。 ■昭和26年 11月28日、校章制定。 ■昭和31年 11月28日、校歌制定。 ■平成07年 3月31日、閉校。4月1日、利別小学校へ統合。 池田町の町制施行は大正17年7月1日である。その前は「川合村」といった。川合村の名称のおこりは、池田町の発祥の地である利別太(今の利別)が十勝川と利別川の合流点にあったことにある。川合村が池田町に変更された理由は、当時、この地域の大部分を所有する池田農場の存在がある。この農場の所有者は旧因幡国鳥取藩主家第154代当主池田仲博(なかひろ)侯爵である。氏は、明治27年5月、同族の子爵池田源氏とともに利別太・下利別に約220万坪、ウシシュベツに約70万坪という広大な原野の貸し付けを得て池田農場を開設している。農場管理人久島重義氏の手腕もあり、この地域における池田農場の存在感はあらゆる面で大きかったのである。それでも、なんとか「川合村」の足跡を残したいとする住民の願いは消えなかった。昭和14年に字名の変更がり「川合」の地名は残ることになる。川合小学校の開校は昭和23年だが、この校舎の建設費用は全額住民の負担であった。17坪の校長住宅も地元負担で新築し、いずれも建設後には町役場に寄贈。戦後の日本にはまだまだ教育にかけるお金がなかったようだ。それでも住民は子弟の教育の大切さを優先させた。 |
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(文責:上野敏郎) |
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池田町立川合小学校 校舎 (画:菅野孝雄氏) |
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池田町立川合小学校 校歌 (文字&絵:鎌田博文氏) | ||||||
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