上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1282回普段着のとかちミーティング


開催日 令和2年8月28日(金)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[146]
     −豊頃町立安骨小学校−
      (1905〜1963)

 ≪あゆみ≫
■明治38年7月18日、茂岩尋常小学校附属安骨特別教育所として開校。
■明治39年11月29日、安骨簡易教育所と開校。
■大正06年4月1日、安骨尋常小学校と改称。
■昭和16年4月1日、安骨国民学校と改称。(国民学校令)
■昭和22年4月1日、中川郡豊頃村立安骨小学校と改称。(6.3制)
■昭和40年1月1日、中川郡豊頃町立安骨小学校と改称。(町制施行)
■昭和38年3月31日、閉校。4月1日、茂岩小学校へ統合。

 安骨の原名は、チャツコツというアイヌ語。意味は「砦の跡」。この地域の地形は、小さな丘が向かい合っていて砦の中心に見えることからこの呼称になったようだ。事実、寛政年間は十勝アイヌと日高アイヌの古戦場であった。所々から矢じりや剣が掘出されている。
 和人の入植第一号は明治28年の橋本順三氏。橋本氏はそれまで大津に住んでいたが、十勝川堤防地の払い下げを受けてこの地に入植した。その後入植者は相次いだが、明治31年の大水害で大きな被害を受け、8戸まで減少している。
 その後、戸数は徐々に増え明治38年、旅来(たびこらい)小学校から分かれる形で安骨特別教育所が開校したのだが、大正8年と11年にまたまた大洪水があり、多くの人家と学校も被害を受けている。
 このように艱難辛苦の足跡を持つ安骨地区だが、ある資料には昭和に入り自動車の運行が進んだことからこの地域は文化的生活を取り戻したとある。そしてそれは、住民の多くを占める富山県人のおかげとしている。富山県人は気持ちがしっかりしていて、よく働き、仲がいいと言うのだが、それは気持ちは分かるが一つの見方であろうとしておく。
 校章、校歌の記録は不明。

(文責:上野敏郎⇒山形県人)
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豊頃町立安骨小学校 校舎
(画:菅野孝雄氏)


豊頃町 町章
(文字&絵:鎌田博文氏)
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[[廃校で消えた学び舎と校歌]
(本別町 中学校編 3回目)

本別町立押帯中学校
開校 昭和22年  |   閉校 昭和56年3月31日
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  上野敏郎へのメールの宛先はt-ueno@octv.ne.jpです。