上野敏郎の | |
上野敏郎の今週のコメント |
第1283回普段着のとかちミーティング |
開催日 令和2年8月31日(月) 話 題 とかち・消えた学び舎の風景[147] −豊頃町立報徳小学校− (1905〜1979) |
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≪あゆみ≫ ■明治38年6月16日、報徳簡易教育所として開校。 ■大正04年4月6日、報徳尋常小学校と改称。 ■昭和16年4月1日、報徳国民学校と改称。(国民学校令) ■昭和22年4月1日、報徳小学校と改称。(6.3制) ■昭和39年4月1日、校章制定。(図案:第12代中川武夫校長) ■昭和51年3月31日、閉校。4月1日、二宮小学校へ統合。 この地域は、二宮尊親氏によって拓けたことで知られている。尊親の祖父は、薪を背負いながら読書に励む二宮金次郎の像で有名な二宮尊徳である。 尊徳は「人は天と地と人の徳に報いるために、自ら徳行を実践しなければならない」と世に説いた人物である。もう少し分かりやすく言うと、この精神を受けて孫の尊親は、明治29年「興復社」を興し十勝・首別(シュベツ)原野に入り小作人ではなく最初から自作農、自立農家を育てることを目指して開拓の鍬を入れた。当然、その後に創立される報徳小学校はその精神〈勤労〉〈分度〉〈推譲〉が教育の現場でも展開されることになる。 さて、校歌の制定だが沿革史に記載はない。ただ、作詞は山條次夫とあることから第10代校長先生であろう推測できる。山條校長の就任期間は昭和22年4月から同26年4月まで。とすると、この期間に『二番、勤学 分度 推譲を 持てる誠の心にて 固めし道ぞ報徳の 不滅の光さんぜんと ああ我が誇 我が力』とした校歌が誕生したに違いない。そう思うのである。 |
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(文責:上野敏郎) |
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豊頃町立報徳小学校 校舎 (画:菅野孝雄氏) |
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豊頃町立報徳小学校 校歌 (文字&絵:鎌田博文氏) | ||||||
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