上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1284回普段着のとかちミーティング


開催日 令和2年9月2日(水)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[148]
     −豊頃町立長節小学校−
      (1903〜1979)

 ≪あゆみ≫
■明治36年9月15日、長節簡易教育所として開校。
■明治40年4月7日、長節教育所と改称。
■大正06年4月1日、長節尋常小学校と改称
■昭和16年4月1日、長節国民学校と改称。(国民学校令)
■昭和22年4月1日、大津村立長節小学校と改称。(新学制施行)
■昭和30年4月1日、豊頃村立長節小学校と改称。(町村合併)
■昭和40年1月1日、豊頃町立長節小中学校と改称。(町制施行)
■昭和45年4月1日、豊頃町立長節小学校と改称。
■昭和53年3月31日、閉校。4月1日、大津小学校へ統合。

 長節とは、アイヌ語で「チップ・ウシ」と発音する。「魚(鮭)の郡来(群在)するところ」の意味になる。長節は、明治29年までは全くの未開の地であった。明治30年1月、千葉県人である津田禎二郎氏ら39戸が入植願いを出し、その秋に10戸の入植が決定しこの地域の開拓が動き出したのであった。
 しかし、この地域の土地は草地や泥炭地が多く排水溝の整備に相当な苦労が必要だった。その上農産物の収穫量も少なく、生計の見通しが立たずこの地を離れる者も多かった。それでもこの地に残ろうとする者は、伐木業や製材工場の請負などを生計の助けとしながら、本来の目的となる牧畜の経営を軌道にのせる努力を重ねた。そいてその努力が実り、地域は徐々に活力を付けていった。正に、開拓者の根性の表れと言える。
 そんな中にあって明治36年、住民の中に「ぜひ学校を設立すべし」の機運が盛り上がる。その願いが叶い、長節川橋近くにあった菅谷友次郎氏所有の古い小屋を仮校舎に学び舎ができたのは、その年の9月15日であった。
 校章、校歌はあるが、制定日等の記録は不明。

(文責:上野敏郎)
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豊頃町立長節小学校 校舎
(画:菅野孝雄氏)


豊頃町立長節小学校 校歌
(文字&絵:鎌田博文氏)
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[廃校で消えた学び舎と校歌]
(本別町 中学校編 5回目)

本別町立仙美里中学校
開校 昭和22年  |   閉校 平成25年3月31日
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