上野敏郎の | |
上野敏郎の今週のコメント |
第1285回普段着のとかちミーティング |
開催日 令和2年9月4日(金) 話 題 とかち・消えた学び舎の風景[149] −豊頃町立農野牛小学校− (1905〜1980) |
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≪あゆみ≫ ■明治35年 9月12日、農野牛家庭教育所を設立。 ■明治38年 3月30日、農野牛簡易教育所として認可。 ■大正06年 4月1日、農野牛尋常小学校と改称。 ■昭和16年 4月1日、農野牛国民学校と改称。(国民学校令) ■昭和22年 4月1日、豊頃村立農野牛小学校と改称。(6.3制) ■昭和39年 1月1日、豊頃町立農野牛小学校と改称。(町制施行) ■昭和55年 3月31日、閉校。4月1日、茂岩小学校へ統合。 農野牛とは、アイヌ語で「ノヤ・ウシ」といい、「ノヤ」は「よもぎ」のこと、「ウシ」は「〇〇の群生(群在)するところ」をいう。よって、農野牛とは「よもぎの群生するところ」となる。 明治30年、大野久七氏が単身入地したのが農野牛地域開拓の始まり。明治31年、富山県から7戸が入植し、その5年後にようやく開拓道路の建設が始まったというから、それまでは正に鬱蒼とした原野同然の地であった。厳しい開拓の歴史の中で特に目に飛び込むのは、明治37年に、それまで低温のためなかなか日の目を見なかった水田事業が、島村安次郎氏の支援と努力である程度の収穫が見込めるところまで成功したとする記録である。 その後、特に昭和に入ってからの冷害で水田は難しくなるが、開拓者が自分の生まれ故郷を思い描きながら、それでも農地に生きようとする姿はもっと評価されていい。 校章、校歌はあるが、制定日等は不明。ただ、校歌の作詞は第9代農野牛小学校の校長坂本貞次先生と同校の高橋喜一先生、作曲も同校の兼子保先生である。この3人の就任歴から昭和50年3月の卒業式で校歌の披露があったのではないかと推測できる。 |
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(文責:上野敏郎) |
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豊頃町立農野牛小学校 校舎 (画:菅野孝雄氏) |
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豊頃町立農野牛小学校 校歌 (文字&絵:鎌田博文氏) | ||||||
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