上野敏郎の | |
上野敏郎の今週のコメント |
第1286回普段着のとかちミーティング |
開催日 令和2年9月9日(水) 話 題 とかち・消えた学び舎の風景[150] −豊頃町立旅来小学校− (1900〜1984) |
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≪あゆみ≫ ■明治33年 11月3日、旅来簡易教育所として開校。(※中川郡旅来村) ■明治38年 4月7日、旅来尋常小学校と改称。 ■明治39年 4月1日、十勝郡大津村、中川郡旅来村等六村が合併し「大津村」が発足。 ■昭和16年 4月1日、旅来国民学校と改称。(国民学校令) ■昭和22年 4月1日、大津村立旅来小学校と改称。(6.3制) ■昭和30年 4月1日、豊頃村立旅来小学校と改称。(町村合併) ■昭和40年 1月1日、豊頃町立旅来小学校と改称。(町制施行) ■昭和59年 3月31日、閉校。4月1日、大津小学校へ統合。 先ず、旅来(タビコライ)という地名に強い関心を持ってしまう。もちろん、アイヌ語からきている訳だが、豊頃町のホームページにある説明をそのまま紹介したい。「旅来〜タビコライ⇒〈タプ・コプ・ライ〉と発音する。〈タプ・コプ〉は〈丸山〉、〈ライ〉は〈死んだ〉、すなわち〈丸山が死んだ〉となる。しかし、別に〈タプカル・ライ〉と発音すると、〈タプカル〉は〈鼓舞する〉となり〈鼓舞して死んだ・ところ〉の意味になる。旅来コタンのアイヌと日高アイヌが戦った折に、戦いに傷つき死に臨んで鼓舞した酋長の伝説があるが、地名との時間的前後関係は不明である。」とある。少々分かりにくいが、記録はそうなっている。 この鼓舞して死んだ酋長の話は、調べてみると寛政年間(1789〜1801)にあったアイヌ間の戦いを言うようだ。この戦いは旅来コタンの勝利で終わるが、矢に当たった酋長は四肢を踏ん張りタップカラ(神楽)を舞ったという。戦勝の英雄を讃える意味を込めて〈タップコライ〉と言い伝えられた。いい話である。校章はあるが校歌は不明。 |
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(文責:上野敏郎) |
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豊頃町立旅来小学校 校舎 (画:菅野孝雄氏) |
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豊頃町立旅来小学校 校歌 (文字&絵:鎌田博文氏) | ||||||
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