上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1288回普段着のとかちミーティング


開催日 令和2年9月14日(月)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[152]
     −豊頃町立礼文内小学校−
      (1906〜1991)

 ≪あゆみ≫
■明治37年 3月31日、私設家庭教育所を開設。(豊頃村字十弗原野)
■明治39年 6月31日、礼文内簡易教育所と改称。
■明治44年 3月5日、礼文内教育所と改称。
■明治45年 4月1日、礼文内尋常小学校と改称。
■昭和10年 9月5日、校章制定。
■昭和16年 4月1日、礼文内国民学校と改称。(国民学校令)
■昭和22年 4月1日、礼文内小学校と改称。(新小学校令)
■昭和23年 10月20日、帽章・胸章制定。
■昭和36年 12月、校歌制定。(校舎落成記念式典挙行)
■昭和40年 1月1日、豊頃町立礼文内小学校と改称。(町制施行)
■平成03年 3月31日、閉校。4月1日、豊頃小学校(2代目)へ統合。

 礼文内(レブンナイ)は、アイヌ語では「レプ・ウン・ナイ」と発音する。「レプ」とは「沖のほうにいる、遠方の〇〇」という意味で、「ウン」は「そこにある、そこに入る」、「ナイ」は「川」をいう。よってレブンナイとは、「遠い方のそこにある川」という意味の地名である。
 その礼文内に柄埼太三氏が明治31年に入地、その後続々と和人が入り開拓が進むことになる。それまでの礼文内は、草に埋もれたとても道路とは言えない道が多少あるだけの地域だった。一キロ先に何があるのか、誰が入地したのか分からない状態でもあった。にもかかわらず人が住み着き始めると人々は子弟の学び舎を優先的に整備していくのである。
 残念ながら、明治39年の私設教育所の児童数は分からないが、その43年の児童数は59人である。45年は85人。開拓に励む人々の力強さが伝わってくる気分になるではないか。

(文責:上野敏郎)
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豊頃町立礼文内小学校 校舎
(画:菅野孝雄氏)


豊頃町立礼文内小学校 校歌
(文字&絵:鎌田博文氏)


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