開催日 令和2年9月25日(金)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[155]
−豊頃町立茂岩小学校− (1900〜2007) |
≪あゆみ≫ ■明治33年 7月3日、茂岩簡易教育所として開校。 ■明治35年 4月1日、茂岩尋常小学校に昇格。 ■昭和39年 9月17日、茂岩尋常高等小学校と改称。 ■昭和16年 4月1日、茂岩国民学校と改称。(国民学校令) ■昭和22年 4月1日、豊頃村立茂岩小学校と改称。(新学制) ■昭和31年 9月23日、校歌制定。校旗新調。(開校60周年記念式典) ■昭和38年 4月1日、安骨小学校を統合。 ■昭和40年 1月1日、豊頃町立茂岩小学校と改称。(町制施行) ■昭和55年 4月1日、農野牛小学校を統合。 ■昭和62年 4月1日、湧洞小学校を統合。 ■平成05年 4月1日、統内小学校を統合。 ■平成19年 3月31日、閉校。4月1日、豊頃小学校(3代目)と統合。
開拓前の茂岩地区は、他の地域と同じように樹木が鬱蒼と茂り、アイヌの人々が魚や貝を採り、熊や鹿などを追って暮らしを立てていた。 明治25年、釧路分監の囚人が多数この地域に入り大津から芽室までの道路づくりを始め、翌26年に完成。機を同じくしてこの地域に入地していた石井三之丞氏が、目的を終えた囚人小屋の払い下げを受け、駅逓や人馬輸送の仕事を始めたのも明治26年である。この頃の茂岩市街には3戸しか家がなかった。
開校60年誌にはこんな記述が残っている。「明治34年当時は、今のような立派な道路ではなく、毎日苦労しながら学校に通った。家を出るのは朝4時頃で通学には泣き出したい位の難所があった。それは今の豊頃橋のところにあった渡船場だった。そこにはアイヌ人のお爺さんがいてなかなか船を出してくれなかった。秋も深まった頃などは、学校の帰りに向かい岸から大きな声でいくら頼んでも駄目で、しまいには2時間も待たされることがたびたびあった。」(浜口亮一)と。アイヌの人々と和人との関わり方や風景がくっくりと頭に浮かんでくる。どこかに隙間風すら感じてしまう。
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(文責:上野敏郎) |
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豊頃町立茂岩小学校 校舎 (画:菅野孝雄氏)
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豊頃町立茂岩小学校 校歌 (文字&絵:鎌田博文氏)
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