上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1293回普段着のとかちミーティング


開催日 令和2年9月30日(水)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[157]
     −本別町立負箙小学校螺運部分校−
      (1921〜1967)

 ≪あゆみ≫
■大正10年 1月15日、負箙尋常小学校螺運部教授場として新設。
■大正12年 12月4日、新校舎が落成。
■昭和05年 11月28日、螺運部尋常小学校に昇格。
■昭和19年 4月1日、負箙小学校螺運部分校に改称。
■昭和28年 校舎の改築完成。
■昭和41年 4月4日、閉校式挙行。その後、負箙小学校と上美里別小学校へ統合。

 負箙小学校螺運部分校に関する資料はほとんどない。よって、負箙小学校(昭和45年3月閉校)の記念誌からそのまま抜き書きすることにした。
 「大正10年1月15日、負箙小学校螺運部教授所が新設され、山口寅太郎氏所有地内に草小屋を建て、当初そこで教育していたが、大正12年4月校舎(建坪107u)が落成したので同所に移転した。昭和5年1月18日、昇格して螺運部尋常小学校となり、初代校長として加藤銀市郎氏が着任した。しかし、昭和19年再び負箙小学校の分校となった。昭和41年4月、児童数3人となり、本校の負箙小学校および上美里別小学校にそれぞれ統合することとなり、同月4日閉校式を行った。」これが記念誌の記録である。
 また、本別町史にはこんな記述がある。「ラウンベ分校の廃校問題−負箙小学校附属ラウンベツ分校については、上美里別小学校の位置の関係から前町会時代において昭和22年度以降廃校することに議決されていたが、その後上美里別小学校の設置の位置に関し、美里別西上、同東上およびラウンベの各部落民の意見にそれぞれ相違があって、これが解決され、同校が廃校になったのは、昭和41年4月のことであった。」これが本別町史の記録である。
 昭和28年の校舎改築情報はインターネットからのもの。校舎、校歌の記録は不明。校章は、本校と同じと推定する。

(文責:上野敏郎)
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本別町立負箙小学校螺運部分校 校章
(画:菅野孝雄氏)



本別町 町章
(文字&絵:鎌田博文氏)

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