上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1294回普段着のとかちミーティング


開催日 令和2年10月2日(金)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[158]
     −本別町立負箙小学校−
      (1882〜1970)

 ≪あゆみ≫
■明治35年 10月8日、押帯(おしょっぷ)簡易教育所として開校。
■明治42年 4月1日、押帯教育所と改称。
■明治44年 4月1日、負箙尋常小学校と改称。
■昭和16年 4月1日、負箙国民学校と改称。
■昭和23年 4月1日 本別町立負箙小学校と改称。
■昭和43年 4月1日、本別小学校と統合し、本別小学校の「分校」となる。
■昭和45年 3月31日、閉校。4月1日、本別中央小学校へ統合。

 「負箙(おふいびら)」は、本別町の有名な難読地名の一つ。その意味は、更科源蔵氏の「アイヌ語地名解」によれば、「ウフイ・ビラ」と呼ばれ、「燃える崖」の意味だそうだ。きっと、赤く見える崖が特徴的だったのだろう。 その地に、明治30年、富山県で営農の傍ら薬行商を営む森由次郎氏が北海道永住の地として「ウフイ・ビラ」を選び、翌31年4月に同志を募って入植したのが開拓の始まりとなった。その数は7戸30人。 開墾が進むにつれ子弟の教育が話題に上り、明治34年4月、帯押村1線に青木久兵衛氏所有の草小屋を仮校舎とし児童10数人で私塾を開校、その翌年には押帯簡易教育所に昇格したである。 本校の閉校記念誌は、「当時、当地区は他地区より開拓が進み先進地的役割を果たしており、ここに教育所を開設するは将来簡易教育所とし、又更に小学校への道を開くための既成事実を得る為の深謀も隠されていたのである。」と記す。地域の教育に期待する気概が伝わってくるではないか。 校歌の記録は不明。

(文責:上野敏郎)
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本別町立負箙小学校 校舎
(画:菅野孝雄氏)



本別町立負箙小学校 校章
(文字&絵:鎌田博文氏)

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