上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1302回普段着のとかちミーティング


開催日 令和2年10月21日(水)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[166]
     −本別町立上拓農小学校−
      (1946〜1977)

 ≪あゆみ≫
■昭和21年 3月31日、本別町上美里別国民学校東美里別分教場として設立認可。(6月15日、開校式を挙行)
■昭和22年 9月1日、本別町立拓農小学校に昇格。
■昭和27年 4月21日、校章制定。(図案:増田先生)
■昭和32年 11月24日、校歌制定。
■昭和52年 3月31日、閉校。4月1日、美里別小学校へ統合。

 この地域の始まりはいわゆる原始林を切り開く開拓風景ではなく、戦争に係る軍馬の育成、供給地としての役割から始まる。
 そもそもは明治42年4月、仙美里に軍馬補充部釧路支部足寄派出所の発足である。大正2年には派出所の官舎や厩舎が完成し馬匹(ばひつ)の収容が始まり、大正8年には現在の拓農の地に分厩が落成している。
 昭和16年、太平洋戦争が勃発するとこの地は2万町を擁す日本一の軍馬用地になった。昭和20年、終戦となり軍馬補充部は解散し土地は従業員に開放され、入植希望者67人で新しい開拓の歴史を作ることになる。その頃に、其れまで子弟たちが通っていた上美里別小学校までは片道8キロに住民の関心が強くなり、昭和21年の分教場の設立となる。
 分教場の認可が下りた後は、部落民の協力で厩舎を改造した校舎づくりが始まる。机や椅子は各家庭に割り当てて作った。そして6月5日、開校式を迎えたのであった。
 「 拓農(たくのう)」の部落名は、分厩時代に育成取締だった加藤卓氏の「たく」と農事取締役の野月仁造氏の「野=の」を取って「拓農」とし、「農を拓く」心意気を示したと記録に残っている。何とも言えないいい気分、ホンノリ気分になるではないか。

(文責:上野敏郎)
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本別町立拓農小学校 校舎
(画:菅野孝雄氏)



本別町立拓農小学校 校歌
(文字&絵:鎌田博文氏)

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