開催日 令和2年11月16日(月)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[176]
−足寄町立上芽登小学校− (1919〜1968) |
≪あゆみ≫ ■大正08年 8月10日、芽登尋常小学校所属上芽登特別教授場として開校。 ■昭和09年 8月16日、上芽登尋常小学校に昇格。 ■昭和16年 4月1日、上芽登国民学校と改称。 ■昭和22年 4月1日、芽登小学校上芽登分校に変更(降格)。 ■昭和29年 4月1日、西足寄町立上芽登小学校に改称(昇格)。 ■昭和43年 3月31日、閉校。4月1日、芽登小学校へ統合。
上芽登小学校物語は、大正4年の東京お茶の水順天堂病院の佐藤進院長(男爵)から始まる。佐藤院長は上芽登地区に国有林未開地の貸付を受け佐藤農場を開設。同時に小作人の子弟教育にも目を向けた。
この地域の子弟たちは、初めは芽登尋常小学校へ通っていたが、冬の通学は困難を極めた。その状況に心を痛めた佐藤院長は農場内に私費で校舎を建てるのであった。27人の子どもたちの学び舎の誕生である。
しかし、昭和20年頃から学校の移転問題がおこり住民間で意見が分かれ、話し合いはこじりにこじれこのことが要因となり教員不在の事態を招くことになる。学校は休校、位置づけも分校に降格となるのであった。
その後しばらくして、校舎の移転は見送ることで話し合いがつき、位置づけも分校から小学校へ昇格するが、これには佐藤院長の決断が大きく影響を与えたのである。佐藤院長は自らの農場を受持者に開放することを決意したのであった。この判断は移住者の増加を招き自ずと子弟の数も増えることになるが、それも長くは続かず昭和43年には閉校。その時の児童数は24人だった。
校章、校歌の記録は不明。
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(文責:上野敏郎) |
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足寄町立上芽登小学校 校舎 (画:菅野孝雄氏)
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足寄町 町章 (画&文字:鎌田博文氏)
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