上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1313回普段着のとかちミーティング


開催日 令和2年11月18日(水)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[177]
     −足寄町立阿寒硫黄鉱山小学校−
      (1955〜1968)

 ≪あゆみ≫
■昭和30年 12月1日、茂足寄(もあしょろ)小学校阿寒鉱山分校として開校。
■昭和33年 4月1日、足寄町立阿寒鉱山小学校に改称。(昇格)
■昭和41年 4月1日、茂足寄小学校阿寒鉱山分校に改称。(降格)
■昭和43年 3月31日、閉校。4月1日、茂足寄小学校へ統合。

 昭和27年、日本特殊鉱業株式会社の阿寒硫黄鉱業所が、雌阿寒岳で硫黄の採掘事業を始めた。そこで働く従業員の子弟のための学校が鉱山分校だ。児童数は12人。
 一時、この学校は分校から小学校へ昇格するが鉱山事業の縮小の流れを受け児童数も減少し昭和43年には閉校となる。校長先生は2代までだった。
 ところで硫黄は、古くからマッチや火薬の原料として使われてきた。明治40年7月28日発行の「北海道殖民広報」(第37号)には、足寄郡螺湾村雌阿寒硫黄鉱山で田村新吉氏を責任者として採掘事業が盛んに行われたとある。ただ、運搬費などの経費がかさむことから事業の展開は難しかった。この事業縮小、廃止が児童減少の大きな要因となったのは論を待たない。
 蛇足になるが、今の時代は「マッチ」そのものが家庭の中であまり使われない。これでは、我々が子ども時代に覚えた「マッチ一本火の用心」のあの防火用語も消えてしまうのではないかと心配である。
 「戦争を知らない子どもたち」という歌があった。これはこれでいい。しかし、マッチの知らない子どもたち!、さてこれでいいのだろうか。
 校章、校歌の記録は不明。

(文責:上野敏郎)
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足寄町立阿寒硫黄鉱山小学校 校舎
(画:菅野孝雄氏)



足寄町 当時の新聞記事の一部
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