上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1315回普段着のとかちミーティング


開催日 令和2年11月24日(火)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[179]
     −足寄町立茂足寄小学校−
      (1916〜1969)

 ≪あゆみ≫
■大正04年 1月、私設教授所を開設。
■大正05年 4月18日、螺湾尋常小学校所属茂足寄特別教授場として開校。
      11月10日、上足寄尋常小学校所属に変更。
■昭和03年 5月26日、茂足寄尋常小学校に改称(昇格)。(特別教育規定)
■昭和14年 4月1日、「学校令」による茂足寄尋常小学校に改称。
■昭和16年 4月1日、茂足寄国民学校に改称。(国民学校令)
■昭和22年 4月1日、足寄村立茂足寄小学校に改称。(新小学校令)
■昭和30年 4月1日、足寄町立茂足寄小学校に改称。(町制施行)
■昭和37年 11月10日、校章、校歌制定。(開校50周年記念式典挙行)
■昭和44年 3月31日、閉校。4月1日、上足寄小学校へ統合。

 大正4年、この地域の戸数が30戸を超え学齢期に達する児童も16人となったため私設の教授所を開設。移住者の一人である茨城県人東海林新四郎氏が無報酬で指導にあたった。これが茂足寄地域の子弟教育の始まりである。15坪の校舎は同年4月30日に完成し、その日に開校式を挙行。正式認可は翌5年の4月18日。大正14年4月15日新築された校舎に移転するも、昭和24年11月30日、物置の西側から出火し校舎が全焼。翌25年に75坪の新校舎が建設されるまで児童の教育は仮校舎で実施せざるを得なかった。ただ、児童減少の傾向は変わらず昭和44年3月に閉校となるがその時の児童数は31人。この数字は、他の閉校例を見るとき比較的多い児童数での閉校決断のように映る。校章の図案及び校歌の作詞は第7代校長黒沼友一先生。校章にある3枚のヤマザクラの葉は開拓者精神と健康とたゆまぬ努力の向上を表している。

(文責:上野敏郎)
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足寄町立茂足寄小学校 校舎
(画:菅野孝雄氏)



足寄町立茂足寄小学校 校歌
(文字&絵:鎌田博文氏)

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  上野敏郎へのメールの宛先はt-ueno@octv.ne.jpです。