上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1317回普段着のとかちミーティング


開催日 令和2年11月27日(金)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[181]
     −足寄町立鷲府小学校−
      (1942〜1969)

 ≪あゆみ≫
■昭和17年 7月1日、西足寄国民学校鷲府分教場として開校。
■昭和21年 4月1日、鷲府国民学校と改称。(昇格)
■昭和22年 4月1日、西足寄村立鷲府小学校と改称。(学制改革)
■昭和30年 4月1日、足寄町立鷲府小学校と改称。(町村合併)
■昭和37年 9月15日、校章、校歌制定。(開校20周年記念式典挙行)
■昭和44年 3月31日、閉校。4月1日、東小学校へ統合。

 鷲府(わしっぷ)の地名は、アイヌ語からきていることは間違いないが、その意味は様々な解釈があり不明。「浪立つ川」という説をここでは紹介しておく。
 この地区に学校をつくろうとしきっかけは、昭和17年5月1日、下鷲府から西足寄市街の学校に通学する時に渡っていた相和橋が落ちたことにある。橋の通行が不能になったため急遽、下鷲府青年会館を増改築して15坪の分教場として活用したのがこの地域の教育施設の始まりとなる。
 開校当時は専任の教員はいなかった。教員は、本校である西足寄国民学校から一週間交代の派遣だった。専任教員が配置されたのは10月。
 昭和20年頃になると児童数は増えたが独立した校舎の建設まではいかなかった。1年生から4年生までは上鷲府青年会館、5、6年生は下鷲府の青年会館に通っていた。
 待望の校舎ができたのは昭和21年2月。この足跡を見ただけでも、何としても子どもたちの教育を学校は続けるとする地域住民の気持ちが痛いほど伝わってくるのである。

(文責:上野敏郎)
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足寄町立鷲府小学校 校舎
(画:菅野孝雄氏)



足寄町立鷲府小学校 校歌
(文字&画:鎌田博文氏)

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