上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1318回普段着のとかちミーティング


開催日 令和2年11月30日(月)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[182]
     −足寄町立上螺湾小学校−
      (1915〜1970)

 ≪あゆみ≫
■大正04年 5月10日、私設上螺湾教育所として授業を開始。
■大正05年 4月1日、螺湾尋常高等小学校所属上螺湾特別教授場と改称。
■昭和03年 5月26日、上螺湾尋常小学校に昇格。
■昭和16年 4月1日、上螺湾国民学校と改称。(国民学校令)
■昭和22年 4月1日、足寄村立上螺湾小学校と改称。(学制改革)
■昭和30年 4月1日、足寄町立上螺湾小学校と改称。(町制施行)
■昭和45年 3月31日、閉校。4月1日、螺湾小学校へ統合。

 この地区の開拓は、すでに石狩地方に入植していた宮城県人本田善治氏が新しい開拓地をめざして希望者を募り、自分の出身村の名前を付けた色麻(しかま)団体を組織し入植したことから始まる。明治45年の話。
 先ず副団長の早坂兵三郎氏ら三戸が120町部の貸付を受け上螺湾地域に入る。その翌年には本田団長が遅れて入植し、大正3年までに13戸が入植している。
 大正4年5月、部落の有志が子弟教育所づくりに動き出す。学齢児は6人、12坪半の草ぶき校舎を完成させ私設教育所としさっそく授業を開始するという素早さだ。ある資料には、大正13年頃の写真だが見事な螺湾ぶき校舎が写っている。高さ3メートル、葉っぱの直径が1メートル、茎の直径10センチと説明する。
 残念なことは、螺湾名物のふきを自慢する螺湾賛歌ともいえる校歌を聞いてみたいと思うのだが、校章、校歌の記録は不明。

(文責:上野敏郎)
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足寄町立上螺湾小学校 校舎
(画:菅野孝雄氏)



足寄町立上螺湾小学校 校章
(画:菅野孝雄氏)

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