上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1322回普段着のとかちミーティング


開催日 令和2年12月9日(水)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[186]
     −足寄町立上稲牛小学校−
      (1948〜1970)

 ≪あゆみ≫
■昭和23年 6月25日、稲牛小学校上稲牛分校として開校。
■昭和26年 4月1日、西足寄町・足寄村組合立に変更。
■昭和30年 4月1日、足寄町立稲牛小学校上稲牛分校と改称。(町村合併)
■昭和30年 7月1日、足寄町立上稲牛小学校に昇格。
■昭和46年 3月31日、閉校。4月1日、稲牛小学校へ統合。

 上稲牛地区の開拓は、昭和19年ごろから始まった。同21年からは、戦後開拓者が入植し十数戸に増える。当時この地域の子どもたちは、約7キロも離れた稲牛小学校に通っていたが、地域住民の努力が実り同23年には分校が開校する。開校式は授業開始から少し遅れて同9月15日、児童数は10人。
 昭和36年12月1日付け北海道新聞(朝刊)に上稲牛小学校の記事を見つけた。そこには、『上稲牛地区は東京から集団入植してきた開拓地。戸数二十、赤ん坊からお年寄りまで入れて百人が全人口だ。〜』とある。この記事の内容と冒頭で紹介した戦後開拓者の関係を示す資料は見つからないが、この地域の発展に占める学び舎の存在は大きかった。校章の記録はあるが制定日は不明。校歌の記録も不明。

(文責:上野敏郎)
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足寄町立上稲牛小学校 校舎
(画:菅野孝雄氏)



足寄町立上稲牛小学校 校歌
(画:菅野孝雄氏)

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