上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1324回普段着のとかちミーティング


開催日 令和2年12月14日(月)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[188]
     −足寄町立上利別小学校−
      (1908〜1972)

 ≪あゆみ≫
■明治41年 11月16日、利別特別教授場として開校。
■大正03年 利別簡易教育所に昇格。
■大正05年 1月25日、利別尋常小学校に昇格。
■大正09年 2月4日、上利別尋常小学校と改称。
■大正15年 4月6日、上利別尋常高等小学校と改称。
■昭和16年 4月1日、上利別国民学校と改称。(国民学校令)
■昭和22年 4月1日 足寄村立上利別小学校と改称。(6・3・3制)
■昭和26年 3月31日、西足寄町・足寄村組合立上利別小学校と改称。
■昭和30年 4月1日、足寄町立上利別小学校と改称。(町村合併)
■昭和32年 11月16日、校歌制定。(開校50周年記念式典挙行)
■昭和47年 3月31日、閉校。4月1日、大誉地小学校と統合。

 上利別地域の開拓は、明治34年9月に富山県人野中源助氏が国有未開地の貸付を受け、3戸の小作人を入植させたことから始まる。
 教育施設の始まりは明治41年、当時の地域住民の数は多くなかったが、子弟の教育をそのままにもできないとして、野中才次郎氏の宅地内に建てた草ぶき小屋を仮校舎にして13人の子どもたちが学ぶことになる。
 その後、児童数も増え始め野中才次郎氏の自宅も使用することになるが、それでも手狭になる状況だった。
 そこで、網走線の鉄道工事をしていた堀内組が使用していた家屋を地域の藤森弥吾吉氏が購入し寄付、そこを校舎として使用するが“手狭さ感”は余り変わらなかったようだ。
 昭和41年(死亡)と42年(重傷)に通学路で児童が続けて交通事故にあっている。この魔の通学路を改善するために地域住民は畑に安全な通学路をたった5日間でつくっている。痛ましい犠牲があった後だが子どもを守ろうとした地域の力は伝わってくる。校章の記録はあるが制定日は不明。

(文責:上野敏郎)
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足寄町立上利別小学校 校舎
(画:菅野孝雄氏)



足寄町立上利別小学校 校歌
(文字&画:鎌田博文氏)

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  上野敏郎へのメールの宛先はt-ueno@octv.ne.jpです。