上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1325回普段着のとかちミーティング


開催日 令和2年12月16日(水)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[189]
     −足寄町立稲牛小学校−
      (1915〜1974)

 ≪あゆみ≫
■大正04年 5月1日、足寄簡易教育所所属稲牛特別教育所として開校。
■大正05年 4月1日、螺湾尋常小学校所属に変更。
■大正06年 4月1日、中足寄尋常小学校所属に変更。
■昭和05年 4月10日、稲牛尋常小学校に昇格。(特別教育規定)
■昭和16年 4月1日、稲牛国民学校と改称。(国民学校令)
■昭和22年 4月1日、足寄村立稲牛小学校に改称。(6・3・3制)
■昭和24年 4月1日、西足寄町・足寄村組合立稲牛小学校と改称。
■昭和30年 4月1日、足寄町立稲牛小学校と改称。(町村合併)
■昭和49年 3月31日、閉校。4月1日、中足寄小学校へ統合。

 稲牛地区は、稲牛川を挟んで当時の足寄村と西足寄町に分かれる地域。開拓は、近隣の新津農場や鈴木農場等の小作人が入植する形で進む。大正2、3年ごろには40戸の部落を形成する。
 その子弟の学び舎は、他の地区に多い既存の小屋や建物を活用するのではなく、最初から草ぶきは変わらないが12坪の教室に7坪の住宅そして物置と便所を新築している。この学校建設に特に熱心だったのは、吉成久左エ門氏と菅野勝記氏だった。初代教員は石井小半二先生。
 昭和4年、新校舎を新築するも湿地帯の影響か凍上被害を受け校舎が傾く危険にあう。そのため同9年、村のお金と住民の寄附で前の校舎を改修している。昭和26年に再び新校舎を建設し、昭和46年には上稲牛小学校を統合するも児童の減少はいかようにもならず、同49年3月に閉校。
 校歌の作曲は第9代校長小嶋豊三郎先生(昭和32年4月〜同37年3月)だが制定日は不明。校章の記録はない。

(文責:上野敏郎)
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足寄町立稲牛小学校 校舎
(画:菅野孝雄氏)



足寄町立稲牛小学校 校歌
(文字&画:鎌田博文氏)

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  上野敏郎へのメールの宛先はt-ueno@octv.ne.jpです。