上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1326回普段着のとかちミーティング


開催日 令和2年12月18日(金)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[190]
     −足寄町立喜登牛小学校−
      (1920〜1978)

 ≪あゆみ≫
■大正09年 9月1日、芽登尋常小学校所属喜登牛特別教授場として開校。
■昭和13年 9月16日、喜登牛尋常小学校に昇格。
■昭和16年 4月1日、喜登牛国民学校と改称。(国民学校令)
■昭和22年 4月1日、西足寄村立喜登牛小学校と改称。(学制改革)
■昭和30年 4月1日、足寄町立喜登牛小学校と改称。(町村合併)
■昭和41年 12月1日、校歌制定。
■昭和54年 3月31日、閉校。4月1日、芽登小学校へ統合。

 「喜登牛」という地名には二つの説があるという。一つは、キト・ウシで「ギョウジャニンニク(俗にいうアイヌネギ)の多いところ」という説。もう一つは、キ(萱)・ト(沼地)・ウシからきていて「低地で萱(かや)のあるところ」という説。どちらが正しいかは識者も断定していない。
 いずれにしてもこの地域は、大正3年以降に国有林を伐採するために多くの作業員が入地したことから開けた。当時は、交通の便が悪く農産物の搬出も簡単ではなかった。
 そんな中、大正9年には特別教授場を開校するが児童数は9人。校舎は新築で19坪であった。昭和10年には総坪数105坪の校舎を新築しているが児童数は不明。校舎の大きさを比較すれば児童数は明らかに増えたことが分かる。
 昭和51年6月20日付け北海道新聞は、喜登牛小学校の児童17人が、足寄駅前で交差点の渡り方など交通ルールを学んだ様子を載せている。「まちへ出た時事故に遭わないように」との願いを込めながらであった。何とも、あったかいものを感じてならない話である。校章の記録は不明。

(文責:上野敏郎)
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足寄町立喜登牛小学校 校舎
(画:菅野孝雄氏)



足寄町立喜登牛小学校 校歌
(文字&画:鎌田博文氏)

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