上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1327回普段着のとかちミーティング


開催日 令和2年12月21日(月)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[191]
     -足寄町立上足寄小学校-
      (1911~1993)

 ≪あゆみ≫
■明治44年 6月15日、私設教授場を開設。
■明治45年 6月19日、足寄簡易教育所所属上足寄特別教授場として開校。
■大正05年 4月18日、螺湾尋常小学校所属に変更。
      11月10日、上足寄尋常小学校に昇格。
■昭和16年 4月1日、上足寄国民学校と改称。(国民学校令)
■昭和22年 4月1日、足寄村立上足寄小学校と改称。(6・3・3制)
■昭和30年 4月1日、足寄町立上足寄小学校と改称。(町村合併)
■昭和34年 8月23日、校歌・校章制定。(開校50周年記念式典挙行)
■平成05年 3月31日、閉校。4月1日、螺湾小学校へ統合。

 上足寄地区は、明治43年に斎藤捨次郎氏を団長とする宮城団体(8戸)の入植から始まる。その後も宮城団体や茨城団体そして近隣の美里別などからの入植者が増え教育施設の整備が必要となる。昭和44年には地域住民の寄附で私設ながら教授場をつくるのであった。児童数20人。
 教員は、住民の推薦を受けた諏訪新四郎氏ら数人で無報酬であった。その後の児童数は明治45年は29人、大正5年は53人、昭和16年は71人、昭和22年は87人、そして児童数がピークになる昭和32年の121人となる。
 その後、昭和43年には鳥取小学校、同44年には茂足寄小学校を統合するが昭和45年の児童数は73人と児童の減少傾向は止まることはなく、上足寄小学校は81年の歴史に幕を閉じる。閉校時の児童数は4人。
 校歌の三番には、「とど松高く 伸びゆくように 理想かざして 進みゆく ああわが校よ 上足寄」の一節がある。卒業生840人の揺るがない母校愛に期待したい。

(文責:上野敏郎)
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足寄町立上足寄小学校 校舎
(画:菅野孝雄氏)



足寄町立上足寄小学校 校歌
(文字&画:鎌田博文氏)

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  上野敏郎へのメールの宛先はt-ueno@octv.ne.jpです。