上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1329回普段着のとかちミーティング


開催日 令和2年12月25日(金)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[193]
     −足寄町立西小学校−
      (1907〜2000)

 ≪あゆみ≫
■明治37年 4月1日、第一本別教育所足寄太特別教育出張所として開校。
■明治40年 7月1日、本別村第二本別簡易教育所として開校。
■明治41年 4月1日、本別村第二本別尋常小学校に昇格。
■大正06年 6月5日、本別村足寄太尋常小学校と改称。
■大正10年 4月1日、西足寄尋常高等小学校と改称。(本別村から分村)
■昭和16年 4月1日、西足寄村立西足寄国民学校と改称。(国民学校令)
■昭和22年 4月1日、西足寄村立西足寄小学校と改称。(学制改革)
■昭和29年 10月7日、校歌制定。
■昭和30年 4月1日、足寄町立西小学校と改称。(町村合併)
■平成12年 3月31日、閉校。4月1日、(新)足寄小学校へ統合。

 明治35年頃のこの地域は本別村の区域だった。人家は散在していたが戸数20戸ぐらいでこの地域に子どもたちが通う学校は無かった。やむなく、子どもたちは足寄村の釧路国足寄教育所に通学していた。
 ところが、明治36年に入ると学校運営に必要な経費負担の都合で通学を拒否されてしまう。その現状を心配した大谷派説教所の住職安藤證道(あんどうしょうどう)和尚が、子どもの教育は一日もなおざりにはできないとして説教所に10数人の児童を集め授業を始めている。「児童教育の一日も忽諸(こっしょ)にすべからず」の言葉が残っている。
 この寺子屋的教育が、西小学校の前身であり、西足寄地域の教育施設の始まり。また、この教育出張所は明治38年5月本別小学校の所管となり、大正10年には本別村から分村し「足寄村」の行政区域になる。
 更には、昭和23年に足寄郡が釧路支庁から十勝支庁に所属を変更。目まぐるしく変わる地域環境からは、未開地を切り開く苦闘の鼓動が聞こえてくるようだ。校章の記録はあるが制定日は不明。

(文責:上野敏郎)
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足寄町立西小学校 校舎
(画:菅野孝雄氏)



足寄町立西小学校 校歌
(文字&画:鎌田博文氏)

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  上野敏郎へのメールの宛先はt-ueno@octv.ne.jpです。