上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1342回普段着のとかちミーティング


開催日 令和3年2月1日(月)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[206]
     −浦幌町立静内小学校−
      (1904〜1977)

 ≪あゆみ≫
■明治37年 11月9日、静内簡易教育所として開校。
■明治42年 4月1日、静内教育所と改称。
■大正07年 4月1日、大津村立静内尋常小学校と改称。
■大正13年 10月、児童数減少のため閉校。
■大正14年 6月、再開校。
■昭和16年 4月1日、静内国民学校と改称。(国民学校令)
■昭和22年 4月1日、静内小学校と改称。(学制改革)
■昭和30年 4月1日、浦幌町立静内小学校と改称。(町村合併)
■昭和44年 校歌、校章制定。(開校60周年記念式典挙行)
■昭和52年 3月31日、閉校。4月1日、浦幌小学校へ統合。

 地区名「静内(しずない)」は、アイヌ語のシュツナイが原称だという。では、「シュツナイ」とは何か、それは澱粉(でんぷん)と糠(ぬか)とを分けた沢だという。これでは、益々分からなくなるが、とにかく澱粉の製造が関係していた地域だとここではしておく。
 明治32年、この地(十勝郡大津村大字十勝村)に函館から出村松五郎氏が入地する。それ以前にも入地者はいたが総勢で8戸程度の小さな部落であった。
 その小さな村が、明治37年の晩秋、村人たちが集い教育所の設置を決定する。子どもたちの学び舎になったのは、村人の一人が所有する15坪の藁葺き小屋だった。開校は明治37年11月9日とあるが、教師の着任は20日後の29日だった。児童数は10人。
 昭和30年4月、旧大津村が合併して浦幌町となるがその時の児童数は33人、そして20年後、静内小学校は閉校し浦幌小学校へ統合する。閉校時の児童数は3人であった。それでも校歌の二番にある「歴史の歩み燦然と 父母の築いた学びやに 誇りを抱きたくましく〜」と歌ったあの精神は永遠に残る。
 校章、校歌の記録はあるがいずれも制定日は不明。

(文責:上野敏郎)
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浦幌町立静内小学校 校舎
(画:菅野孝雄氏)



浦幌町立静内小学校 校歌
(文字&画:鎌田博文氏)

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