開催日 令和3年2月3日(水)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[207]
−浦幌町立瀬田来小学校− (1919〜1980) |
≪あゆみ≫ ■大正08年 9月1日、中浦幌瀬多来特別教授場として開校。 ■昭和09年 6月6日、瀬多来尋常小学校と改称。 ■昭和16年 4月1日、瀬多来国民学校と改称。(国民学校令) ■昭和22年 4月1日、瀬多来小学校と改称。(学制改革) ■昭和29年 4月1日、浦幌町立瀬多来小学校と改称。(町制施行) ■昭和55年 3月31日、閉校。4月1日、常室小学校へ統合。
「瀬多来」という地名は、アイヌ語のセータルからきている。セータルの意味は「山梨」のことだそうだ。昔この地に「山梨」が生い茂っていたようだ。ただ、もう一つの説として「犬の死んだ処」という意味もあるとするが、詳しい意味は分からない。
瀬田来地区の最初の入植者は村西文左衛門氏一家、大正2年のことである。村西氏はその時何と99歳の高齢ながら元気だったと言うから驚く。その後2年、3年遅れて後藤えん氏、山田たか氏も入植するが、二人はそれぞれ95歳と85歳というからこれにもびっくりする。この健在な高齢者三人が瀬多来地区開拓の草分けなのだ。これは特筆すべき扱いになる。
さて瀬多来小学校の開校時の児童数は6人、ピーク時が31人、そして偶然にも閉校時は6人であった。61年の学び舎の足跡をそのままこの地の開拓物語として残して置きたい。
校章、校歌はあるが制定日は不明。「打ちふる鍬に汗なして 自由文化をたがやさん〜」(校歌2番)の歌声が森の中から聞こえてきそうだ。
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(文責:上野敏郎) |
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浦幌町立瀬田来小学校 校舎 (画:菅野孝雄氏)
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浦幌町立瀬田来小学校 校歌 (文字&画:鎌田博文氏)
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