開催日 令和3年2月8日(月)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[209]
−浦幌町立豊北小学校− (1950〜1982) |
≪あゆみ≫ ■明治39年 2月、十勝太に教育所を開設。 12月、大津村鼈奴(べっちゃろ)教育所を設置
■明治45年 十勝太教育所を合併して大勝尋常小学校と改称。 ■大正12年 閉校。⇒児童は養老尋常小学校へ委託通学。 ■昭和21年 一部児童は、十勝小学校へ通学。 ■昭和25年 11月15日、大津村立豊北小学校として創立。 ■昭和30年 4月1日、浦幌町立豊北小学校と改称。(町村合併) ■昭和39年 校歌制定。(翌40年、開校15周年記念式典挙行) ■昭和57年 3月31日、閉校。4月1日、新養老小学校へ統合。
開拓当時の大津村東部地区の資料に「豊北」が出てくる。地名の意義をこう説明する。「原称ベッチャロ、アイヌ語で川の分岐する口という意味」だと。
でも、これではアイヌ語でいう地名「鼈奴(べっちゃろ)」の説明にはなっていても、「豊北(とよきた)」の説明にはなっていない。ここでは「豊頃の北に位置する地域」と理解することにする。
同じ資料に、この地域に明治17年頃には「土人5・6戸が存在」したとある。「土人」とはすごい表現だが、その頃はこの地を「ベッチャロ」と呼び、アイヌの家族が5〜6戸が生活していたことになる。
和人の入植は明治28年が最初だが、この地は水害が多く定住するには問題がありすぎた。明治35年までは無人状態が続いた。再び移住者が住み着くのは明治36年、その後も水害、冷害に何度もあっている。それでも人は住み着き、子弟の学び舎をつくる。このエネルギーの源泉には唯々驚嘆するしかない。
開校時は37人、31年後の閉校時は10人の児童数。校章はあるが制定日は不明。校歌の三番は「校章燦とかがやけば〜」から始まる。ここを根拠に、校歌と校章は同じ頃に誕生したことにしよう。
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(文責:上野敏郎) |
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浦幌町立豊北小学校 校舎 (画:菅野孝雄氏)
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浦幌町立豊北小学校 校歌 (文字&画:鎌田博文氏)
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