開催日 令和3年2月15日(月)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[212]
−浦幌町立稲穂小学校− (1902〜1982) |
≪あゆみ≫ ■明治35年 6月6日、生剛村(せいごうむら)下頃辺(したころべ)簡易教育所として開校。 ■明治45年 4月10日、生剛村から「浦幌村」へ改称。 ■大正05年 1月29日、浦幌村立下頃辺尋常小学校と改称。 ■大正12年 6月6日、浦幌村立稲穂尋常小学校と改称。 ■昭和16年 4月1日、浦幌村立稲穂国民学校と改称。 ■昭和22年 4月1日、浦幌村立稲穂小学校と改称。 ■昭和29年 4月1日、浦幌町立稲穂小学校と改称。(町制施行) ■昭和36年 12月3日、校歌制定。 ■昭和57年 3月31日、閉校。4月1日、浦幌小学校へ統合。
先ず、稲穂小学校の前身となる学び舎の位置の変遷を記録に留めておきたい。
最初は明治35年、位置は生剛村字下頃辺西八線北三十番地、次が、明治37年で生剛村西八線北三十三番地、三回目は大正6年で浦幌村字下浦幌西八線二十四番地の甲である。
大正12年に学校名を「下頃辺」という地域名ではなく「稲穂」とした。これには地域の希望が込められている。この地区は比較的広潤な平野であった。この特性を生かして、浦幌村の米産地として育てあげ全村民の米倉にしたいとしたのである。しかし、その願いに豊富な川の本数が邪魔をする。稲作に欠かせない十分な乾燥環境をつくれない土壌を改良できなかったのである。当然、従事者や定住者の数も減っていくのであった。
学び舎に関すことだが、沿革を調べていく中で小さな発見をした。それは、大正5年9月に学校はオルガンを150円で購入している。それは「山葉オルガン」だ。これは今の大手楽器メーカー「ヤマハ」であろうか。それと、値段。大正6年に建てた新校舎約52坪の費用が950円だ。全額部落民の寄附で購入したオルガンは150円。高価なオルガンであった。
校歌は昭和36年の制定、校章はあるが制定日は不明。但し、昭和39年に校旗を新調している。校旗に校章は付き物だ。校章は確かにあったと推測できる。
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(文責:上野敏郎) |
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浦幌町立稲穂小学校 校舎 (画:菅野孝雄氏)
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浦幌町立稲穂小学校 校歌 (文字&画:鎌田博文氏)
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