開催日 令和3年2月17日(水)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[213]
−浦幌町立留真小学校− (1906〜1984) |
≪あゆみ≫ ■明治39年 3月7日、生剛(せいごう)村に第三浦幌尋常小学校附属中浦
幌特別教授場として開校 12月、常室(とこむろ)尋常小学校附属中浦幌特別教授場に変更。 ■明治40年 4月1日、生剛村立中浦幌留真教育所と改称。 ■大正04年 7月27日、浦幌村立留真尋常小学校と改称。 ■昭和16年 4月1日、浦幌村立留真国民学校と改称。(国民学校令) ■昭和22年 4月1日、浦幌村立留真小学校と改称。(学制改革) ■昭和29年 4月1日、浦幌町立留真小学校と改称。(町制施行) ■昭和59年 3月31日、閉校。4月1日、常室小学校へ統合。
地名「留真」の原称は、アイヌ語の「ルシン」にある。ルシンとは、「四方に通じる処」という意。確かに、周辺には上浦幌、瀬多来、留真澤、又運地域などが「留真」を囲むようにある。
この地に明治32年、福井県人川村市松一家を始め入植者が続々と続いた。その大きな要因は、明治35年から6年にかけて周辺幹線道路の整備や鉄道の開通にある。産業面では石炭、林業、癒しの面では温泉、畜産の面では生乳より綿羊の飼育が盛んであった。
明治39年、学校の産声があがる。川畑勝栄氏が所有する荒れ果てた草屋が教場だった。沿革の概要にはわざわざ「荒れ果てた草屋」とある。相当ひどい校舎であったのだろうか。
児童数は、大正4年は44人、昭和31年が68人、昭和48年は11人、閉校時が10人、総卒業生は623人だった。
校章、校歌の記録はあるが制定日は不明。校歌の作詞は昭和37年から1年間だけ在籍した第11代校長山田勇先生。 三番は、「むとせのすきをふりかえり 尊き父母のいさおきき とわに伝えてすこやかに〜」と子どもにはやや難しい歌詞となっている。
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(文責:上野敏郎) |
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浦幌町立留真小学校 校舎 (画:菅野孝雄氏)
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浦幌町立留真小学校 校歌 (文字&画:鎌田博文氏)
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