開催日 令和3年2月19日(金)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[214]
−浦幌町立貴老路小学校− (1907〜1986) |
≪あゆみ≫ ■明治40年 1月10日、浦幌村上浦幌第二簡易教育所を開校。 ■明治41年 5月10日、浦幌村上浦幌教育所と改称。 ■明治43年 12月24日、浦幌村第四浦幌尋常小学校と改称。 ■大正13年 2月22日、浦幌村立貴老路尋常小学校と改称。 ■昭和16年 4月1日、十勝郡喜老路国民学校と改称。(国民学校令) ■昭和22年 4月1日、浦幌村立喜老路小学校と改称。(学制改革) ■昭和26年 10月2日、校章制定。
10月26日、校歌制定。 ■昭和29年 4月1日、浦幌町立貴老路小学校と改称。(町制施行) ■昭和61年 3月31日、閉校。4月1日、上浦幌中央小学校へ統合。
貴老路地区開拓の始まりは、明治32年以前に本別村キロロに入植していた森平作氏が、明治33年頃この地域内に新しい耕地の貸与を受けたことにある。直ちに娘婿夫婦が開拓に入り、翌年、森一族がその地に移住している。その後、次々と入地者が増えたのであった。
明治39年に入ると何と戸数は68戸を数える。この機をとらえ、地域住民は宮田己之助氏が所有する牧場地の一部分の寄附を受け、そこに草葺きの仮校舎をつくるのであった。しかし、その校舎は暴風雨のためまもなく倒壊してしまったのであった。
それでも地域住民は、直ちに土台付きの雅葺きの校舎を建設し「第二簡易教育所」開校に漕ぎつけている。地域住民が我が子等の教育に賭ける心意気が伝わる話である。
校章、校歌は、いずれも昭和26年10月の制定。校章の図案と校歌の作詞は猪俣浩一先生、校歌の作曲は浜中芳吉先生である。閉校時の児童数は65人。卒業生は1448人。
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(文責:上野敏郎) |
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浦幌町立貴老路小学校 校舎 (画:菅野孝雄氏)
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浦幌町立貴老路小学校 校歌 (文字&画:鎌田博文氏)
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