上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1351回普段着のとかちミーティング


開催日 令和3年2月24日(水)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[215]
     −浦幌町立川上小学校−
      (1908〜1986)

 ≪あゆみ≫
■明治41年 4月21日、上浦幌第二特別教授場として開校。
■明治42年 4月1日、上浦幌第二教育所と改称。
■明治45年 4月1日、生剛(せいごう)村から「浦幌村」へ改称。
■大正13年 3月31日、浦幌村立川上尋常小学校と改称。
■昭和16年 4月1日、川上国民学校と改称。(国民学校令)
■昭和22年 4月1日、浦幌村立川上小学校と改称。(学制改革)
■昭和29年 4月1日、浦幌町立川上小学校と改称。(町制施行)
■昭和42年      校歌制定。
■昭和61年 3月31日、閉校。4月1日、上浦幌中央小学校へ統合。

 川上小学校の創始は、十勝郡上浦幌東13線80番地の経堂力次郎氏宅から始まる。児童数は8人。77年の歴史を刻むが閉校時の児童数は13人、卒業生は640人を数える。
 この地区は、浦幌川の最上流にある「上川上(かみかわかみ)地区」と「下川上(しもかわかみ)地区」に分かれる。上川上地区は明治39年、信州団体9人の入植から開拓が始まった。下川上地区には明治37年頃入植者があったとされているが、どこの誰かは特定されていない。ただ、同39年には越中団体11戸が入植している。
 大正7年、この地で米作を試みたのが越中団体の3人だった。その3人とは石原菊次郎氏、宮田発次郎氏、松本菊次郎氏だ。少し横道に逸れるが、ここで目を疑うのはこの3人、すべて「次郎」名であり、石原、松本両氏は同じ「菊次郎」である。何かの間違いではないかと他の資料も調べたが同じだった。
 それどころか、その資料に掲載されている13人のうち12人が「次郎」で、一人は「三郎」である。十勝の開拓で頑張ったのは、本州で実家の田畑を長男に譲った次三男族だということか。

(文責:上野敏郎)
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浦幌町立川上小学校 校舎
(画:菅野孝雄氏)



浦幌町立川上小学校 校歌
(文字&画:鎌田博文氏)

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  上野敏郎へのメールの宛先はt-ueno@octv.ne.jpです。