上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1352回普段着のとかちミーティング


開催日 令和3年2月26日(金)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[216]
     −浦幌町立川流布小学校−
      (1910〜1986)

 ≪あゆみ≫
■明治43年 10月2日、十勝郡生剛村第四川流布特別教授場として開校。
■明治44年 9月1日、十勝郡生剛村川流布教育所と改称。
■明治45年 4月10日、生剛(せいごう)村から「浦幌村」へ改称。
■大正01年 12月27日、浦幌村立第七浦幌尋常小学校と改称。
■大正13年 2月23日、浦幌村立川流布尋常小学校と改称。
■昭和16年 4月1日、浦幌村立川流布国民学校と改称。(国民学校令)
■昭和22年 4月1日、浦幌村立川流布小学校と改称。(学制改革)
■昭和29年 4月1日、浦幌町立川流布小学校と改称(町制施行)
■昭和39年      校歌制定。
■昭和61年 3月31日、閉校。4月1日、上浦幌中央小学校へ統合。

 川流布とは、アイヌ語の「カワルプ」からきている。意味は、「平べったい岩のあるところ」とか「トドマツ」のこととあるが、どちらが地区名に近いかは分からない。
 この地区は明治36年に区画割があり、同38年から開墾が進められた。オンネナイ地域、下川流布地域にはそれぞれ20戸、15戸と多くの人々が開拓を進めていく。
 しかし、記録によれば管理人と小作人との間に利害が対立する騒動も何度かあったようだ。その騒動の中で登場する人物は、下川流布地区にあった熊谷農場所有地を取得する鷲見邦司(すみくにじ)氏である。鷲見氏は後に河西支庁長(現十勝地方振興局長)に就任する人物である。
 さて、川流布小学校の創立時は生剛村時代である。児童数は8人とする記録がある。閉校時は7人。卒業生は553人を数える。校章の記録はないが校歌はある。制定日は不明だが、ただ作詞は昭和39年4月から42年3まで在任した第11代校長岩山鏡平先生。

(文責:上野敏郎)
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浦幌町立川流布小学校 校舎
(画:菅野孝雄氏)



浦幌町立川流布小学校 校歌
(文字&画:鎌田博文氏)

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  上野敏郎へのメールの宛先はt-ueno@octv.ne.jpです。