開催日 令和3年3月1日(月)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[217]
−浦幌町立十勝小学校− (1906〜1990) |
≪あゆみ≫ ■明治39年 2月20日、大津村十勝太教育所として開校。 ■明治45年 4月1日、大津村大勝尋常小学校と改称。(十勝太・龞奴(べっちゃろ)両教育所合併) ■昭和14年 3月20日、大津村立十勝尋常小学校と改称。 ■昭和16年 4月1日、大津村立十勝国民学校と改称。(国民学校令) ■昭和22年 4月1日、大津村立十勝小学校と改称。(学制改革) ■昭和30年 4月1日、浦幌町立十勝小学校と改称。(町村合併) ■昭和33年 1月6日、校歌、校章を制定。(校舎増改築落成式挙行) ■平成02年 3月31日、閉校。4月1日、浦幌小学校へ統合。
十勝小学校(部落)歴史を記すある資料の冒頭は、「旧場所請負制(きゅうばしょうけおいせい)」から始まる。この制度は、江戸時代、田畑を持たなかった松前藩が家臣(知行主)に俸禄(給与)として蝦夷地の一定地域を与え、その場所で独占的に交易し利益を得てよいとする仕組みをいう。※知行とは、幕府や藩が家臣に俸禄として土地を支給したこと。また、その土地のこと。
この制度は、過渡的な要素を残しながらも明治2年に廃止されるが、十勝小学校の成り立ちにとっては特別に記録に残すべきことであったと理解できる。
さて、明治39年の開校は、「コタン」の中で産声をあげた。※コタンとは、アイヌ語。アイヌ社会の基本となる集落・村落をいう。 その学び舎はコタンの最長老上西エコシップ氏からの寄贈であった。氏は、その頃コタンとは別の場所に住宅を新築していたが、まだ一度も入居していなかったその建物をコタンまで曳いてきて寄贈したとある。当然、部落中が歓喜と感激に湧きあがるのであった。
開校時の児童数は17人で「不就学児童ナシ」と豊頃町史にはある。また、家屋は26戸、人口112人とある。「舟を浮かべて 海の幸 草野開いて 山の幸〜」と歌う校歌は昭和33年からだった。
校歌は、その学び舎をあるがままに映し出すのである。閉校時の児童数は16人。
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(文責:上野敏郎) |
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浦幌町立十勝小学校 校舎 (画:菅野孝雄氏)
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浦幌町立十勝小学校 校歌 (文字&画:鎌田博文氏)
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