開催日 令和3年3月5日(金)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[219]
−浦幌町立活平小学校− (1906〜1998) |
≪あゆみ≫ ■明治39年 12月3日、十勝郡上浦幌第一簡易教育所として開校。 ■明治41年 4月1日、上浦幌第一教育所と改称。 ■明治43年 12月24日、十勝郡第五浦幌小学校と改称。 ■大正13年 2月23日、活平尋常小学校と改称。 ■昭和16年 4月1日、活平国民学校と改称。(国民学校令) ■昭和22年 4月1日、活平小学校と改称。(学制改革) ■昭和23年 5月1日、校歌制定。 ■昭和29年 4月1日、浦幌町立活平小学校と改称。(町制施行) ■平成10年 3月31日、閉校。4月1日、上浦幌中央小学校へ統合。
活平という部落名は、アイヌ語の「ユクピラ」が原称。ユクは「鹿」、ピラは「崖」という意味。この地域は、かつては熊や鹿が多数生息しアイヌの格好の狩の場であった。
明治31年頃の活平部落は、浦幌の開拓に大きな役割を果たした熊谷農場所有上浦幌牧場の一部だった。管理人は守屋晋氏。守屋氏の次の管理人は浦幌開拓史を語る時忘れてはならない中川北松氏だ。その中川氏は守屋氏から駅逓所も受け継いでいる。 さて、学校の始まりは明治39年。21坪の教室を全額部落からの寄附で賄い開校している。同44年には、これも浦幌開拓史を飾る朝日浅吉氏が5,000坪の土地を校地として寄付している。
昭和16年頃になると、この地域に製炭業者20数戸が入り児童数が増えていく。しばらくは児童数60人台を維持するが昭和30年代後半から減少していくのであった。校章、校歌の記録はあるが、校章の制定日は不明。校歌の作詞、作曲は第6代校長岩田虎造先生。
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(文責:上野敏郎) |
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浦幌町立活平小学校 校舎 (画:菅野孝雄氏)
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浦幌町立活平小学校 校歌 (文字&画:鎌田博文氏)
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