開催日 令和3年3月12日(金)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[222]
−浦幌町立常室小学校− (1900〜2005) |
≪あゆみ≫ ■明治33年 2月10日、常室簡易教育所として開校。 ■明治38年 2月10日、第三浦幌尋常小学校と改称。 ■大正13年 2月23日、浦幌村立常室尋常小学校と改称。 ■昭和16年 4月1日、常室国民学校と改称。(国民学校令) ■昭和22年 4月1日、浦幌村立常室小学校と改称。(学制改革) ■昭和26年 10月3日、帽子、バッチ制定。 ■昭和44年、3月31日、上常室小学校を統合。 ■昭和29年 4月1日、浦幌町立常室小学校と改称。(町制施行) ■平成17年 3月31日、閉校。4月1日、浦幌小学校へ統合。
常室の地名は、アイヌ語のトコオモオロからきている。「瘤(こぶ)の如く突出した所」の意味。山や川淵に突き出した所があったようだ。
手元の資料によれば、明治28年頃この地は古川家によって発見され、同44年、古川鉱業が鉱区を設定し浦幌炭礦が操業を始める。その後いくつかの企業がこの地で炭礦事業に取り組んでいる。
一方、明治31年になると40戸ぐらいの移住者が自作農を生業とする部落を形成する。驚くことは、その年に常室山善勝寺で寺子屋教育が始まることだ。そして、2年後の33年には簡易教育所の設立となる。学齢児30人が全員学べる校舎は部落民の寄付だった。
この年、留真温泉が発見された。同36年には、音別―浦幌間、37年に浦幌−豊頃間、40年には富良野−釧路間の鉄道が開通するなど、人々の開拓魂を後押しするかのように周囲の環境は整っていくのであった。
しかし、力強く開拓の鍬を振り続けた常室地域も世の中の移り変わりの中で人口は減ることなる。自ずと児童数も下降線を辿り平成17年3月、105年の学びの歴史に幕を下ろした。校歌はあるが制定日は不明。
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(文責:上野敏郎) |
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浦幌町立常室小学校 校舎 (画:菅野孝雄氏)
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浦幌町立常室小学校 校歌 (文字&画:鎌田博文氏)
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