開催日 令和3年3月19日(金)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[225]
−音更町立昭和小学校− (1927〜2020) |
≪あゆみ≫ ■昭和02年12月22日 昭和尋常小学校として開校。 ■昭和14年3月10日 校旗入魂式を挙行。 ■昭和16年4月1日 音更村立昭和国民学校と改称。 ■昭和22年4月1日 音更村立昭和小学校と改称。 ■昭和28年4月1日 校章制定。(デザイン:宮沢静子教諭) ■昭和28年7月1日 音更町立小学校と改称。(町制施行) ■昭和35年3月22日 校歌制定。(作詞:神田敏 作曲:小林幸夫)
※神田敏氏は昭和小学校第八代校長。 ■令和02年3月31日 閉校。4月1日、音更小学校へ統合。
昭和小学校は、音更町東和東1線19番地の地にあった。「昭和小学校」の名称は、昭和の時代に開校したことに由来するのか。
昭和小学校の70周年史によれば、この地域の開拓は明治30年に岐阜県から開拓団晩成社の一員であった加藤吉郎右衛門氏らが入植したことから始まったとなる。しかし、昭和36年発行の「音更町史」には、「明治30年4月、越前の人加藤吉郎右衛門氏が、大津より十勝川を上り、帯広の晩成社に入り、単身士幌川を上り、現在の東三線19番地に入植〜」とある。
静岡県の伊豆で結成された開拓団晩成社一行27人が今の帯広市水光園あたりに入植したのは明治16年である。その中に加藤吉郎衛門氏の名はない。その後、岐阜か越後から十勝に入り、晩成社の一員となった後に東和地域に入植したと考えるべきか。加藤吉郎右衛門がいつ、今の何県から十勝に入ってきたかは現在のところ不明である。いずれにしても、人跡未踏の地であったこの地に男女合わせて40名の学校が開校したのは昭和2年である。加藤吉郎右衛門が入地してから30年の月日が流れている。開拓は苦労の度合いは容易に想像できる。当然、先人への感謝と敬意の念は自ずと湧くことになる。
これから調べたいことを記して置く。昭和小学校の沿革史に校章の制定は昭和28年4月1日であり、デザインは宮沢静子先生だとある。更に、「この校章のデザインは、校旗に使われている物である。旧校旗制定年度は不明だが、新校旗は平成4年(1992)校舎落成記念協賛事業として寄贈された。」とある。となると、同じ沿革史にある昭和14年の「校旗入魂式」での校旗には校章は入っていないということだろうか、疑問に思うのである。
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(文責:上野敏郎) |
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音更町立昭和小学校 校舎 (画:菅野孝雄氏)
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音更町立昭和小学校 校歌 (文字&画:鎌田博文氏)
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