上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1406回普段着のとかちミーティング


開催日 令和4年1月19日(水)
話 題 私の「依田勉三研究」[その10]
     −昔の十勝日日新聞から−
 
晩成社と養豚について
 「開墾の始(初)めは豚と一つ鍋」は誰が詠んだ句か、を考えてきた。それではそもそも十勝の養豚事業はどのように始まったのかを、今は亡き郷土史研究家井上壽氏の資料を基に調べたいと思う。  
 勉三は、明治16年5月9日に開拓団陸行隊の一行と一緒に下帯広(オベリベリ)に入地。その翌年、つまり明治17年4月7日に勉三は伊豆大沢村に向かって下帯広を出発している。目的は、晩成社本社への開拓事業の経過報告であった。勉三の伊豆滞在は八か月という長いものであった。  
 勉三が帯広村に戻ったのは明治17年12月8日である。その時勉三は、豚4頭と山羊4頭(平成17年12月5日付十勝毎日新聞「晩成社開拓4年の苦闘」より)を船積みし十勝の大津に送っている。そして真冬に近い時期でもあり、豚と山羊は大津で越冬するのであった。そして翌明治18年4月24日、豚雄雌一対4頭、山羊雄雌一対2頭(平成9年1月15日付十勝毎日新聞「晩成社養豚史」より)が帯広村に到着するのである。不思議なことに、山羊は4頭から2頭に減っている。
もう一つの説  
 前の説は、勉三が伊豆松崎に一時帰省した時に多分地元で豚4頭と山羊4頭を購入し、それを横浜港からは函館あたりを経由して大津まで送ったとする郷土史研究家井上壽氏の説を掲載していると思われる。
 しかし、別の説もある。それは、「この身 北の原野に朽ちるとも」の著者福永慈二氏の説である。記載は313ページ。「〜。昨年末(※明治17年末をいう)に勉三が釧路で仕入れた豚と山羊がいよいよ帯広に運ばれて来たのである。 〜。それらは昨年末、勉三が伊豆からの帰りに函館から釧路に向かう船中で、偶然出会った釧路の中戸川平太郎という男から破格の値段で譲ってもらい、大津まで引いてきたものであった。」とある。  
 勉三は、釧路でかった豚4頭と山羊2頭を大津まで陸路を運んできたが、その近くの農家に預け年を越すのである。まもなく、晩成社が大津に出張所を構えることになり豚と山羊はその出張所の庭に移され、翌4月大きな舟で帯広まで無事到着するのであった。
 さて、どちらの説が正しいかはにわかに判断できないが、私は釧路説である。
 それでは、
勉三は、なぜ豚に執着したのか  
 帯広で最初に飼われた豚がどこから来たかの答えは、専門家の判断を待つとして、勉三はなぜ養豚業を始めようとしたのだろうか。その決め手は、明治14年に塚原苔園が書いた「小学農業書・巻二」にある。
 そこに次のような記述がある。  
 「豚は土地の寒暖を嫌わずよく生育し、繁殖も至って速やかなり。その食料は野菜、穀類、肉類の別なく生鮮と腐敗とを問わず、いかなる物も食わないものはない。ゆえに飼養のやさしいことは家畜中第一とする。〜」と。
 すなわち、豚は飼育が簡単であること、よく繁殖することなどが勉三の心を大きく揺さぶったのであった。
明治18年2月、「同盟牧畜社」を結成。
 豚が下帯広に入る前、つまり明治18年2月1日に、勉三、鈴木銃太郎、渡辺勝の三人は「同盟牧畜社」を結成している。つまり、この養豚業は晩成社の事業とは別扱いにしたのである。そのため3人は、お互いに契約書を交わし勉三と銃太郎は豚を、勝は山羊を飼育することに決めている。


(文責:上野敏郎)



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