上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1411回普段着のとかちミーティング


開催日 令和4年2月3日(木)
話 題 私の「依田勉三研究」[その15]
     −昔の十勝日日新聞から−
 
 昭和26年7月1日付の十勝日日新聞が掲載する『三原武彦の回想の依田勉三B』に「〜。最後の病床にあるうち後妻のサヨが急逝したが、彼(※勉三のこと)は風の便りに先妻リクが本田某に再縁し死別し生計困難であると呼び戻すことになり、筆者(※三原武彦のこと)はその使者として迎えに行ったが、かつて若い日の夢を晩成社王国において励ましあった両人は半世紀を隔てて対座したのである。「苦労したろう」と勉三「貴方も」とリク、二人の老いの眼は光るものがあったリクは族一善六の女であり女大学式の教養はあったが、体も弱く、荒々しい開拓の仕事において勉三の好伴侶たるには役者不足であった。〜」とある。
リクの心境やいかに@  
 今まで疑問に思ってきたことがある。それは、なぜリクは四回も伊豆と帯広を行ったり来たりしたのだろうか、そのことを不思議に思ってきた。  
 勉三とリクは明治12年4月5日に結婚、同14年には息子俊介が生れる。そして同16年3月、晩成社開拓団と共に蝦夷地オベリベリに向けて伊豆大沢村を出立、これがリクにとって最初の帯広村暮らしである。新妻として夫勉三を支えたいリクの気持ちはよく分かる。
 明治18年9月、そのリクは厳しい開拓生活の中で健康を害し伊豆大沢村に帰るのである。その2年後、同20年9月にリクは健康が回復したとして再び帯広村に戻るのである。一日も早く元気になって夫の勉三の元に帰りたいリクの気持ちは痛いほど理解できる。これがリクの2回目の帯広生活である。  
 しかし、同27年8月9日、勉三と一緒に函館にいたリクは病気を理由にして勉三と離婚し伊豆に帰るのであった。この頃勉三は、函館東浜町に牛肉屋を開店している。リクはその開店の手伝いをしたいと勉三と一緒に函館まで来たのだと思う。まさか、この地で勉三から離婚を告げられ伊豆松崎に戻ることになるとは考えていなかったと思うのである。
 勉三は、同27年7月8日、「勉三は青森まで商用で出かける」としながら、実は伊豆松崎に足を延ばし、勉三に兄佐仁平やリクの兄善六とリクの身体のことを相談している。それを受けての勉三とリクの離婚である。
 一般的には、この離婚はリクの健康を考える勉三の「思いやり離婚」のように伝えられているが、それだけだろうかとも思うのだ。

 明治28年、勉三は函館生まれのサヨと結婚する。サヨには二人の子どもがいた。
 大正13年春、勉三が中風に罹るとその看病疲れもありその年の9月にサヨが他界する。サヨが亡くなったため、伊豆に居るリクが別れた亭主の看病をするために下帯広に来るのであった。こんなことがあるのだろうか、でも事実なのだ。  
 更に、『三原武彦の「回想の依田勉三」B』には、「彼(※勉三のこと)は、風の便りに先妻リクが本田某に再縁し死別し生計困難であると聞いて呼び戻すことになり〜」とある。その上、リクを迎えにいったのは三原、つまり自分自身だと書いている。使者三原の話は、他の資料にはないものであり新発見であるが、リクが暮らしに困っているから元夫の看病のため下帯広に戻れとはいささか自分勝手すぎないかとも思うのである。

(文責:上野敏郎)




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