上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1416回普段着のとかちミーティング


開催日 令和4年2月22日(火)
話 題 私の「依田勉三研究」[その20]
     −昔の十勝日日新聞から−
 
真珠の御木本と勉三の接点  
 三原武彦は、「回想の依田勉三B」の中で、新しい勉三の事業意欲を紹介している。「〜。死の床においてさえ勉三は、その昔流浪の御木本幸吉が訪れたというキモント沼に真珠の養殖はできないものかとくり返す程見果てぬ夢の持ち主であった。〜。」としている。  
 勉三が、真珠の養殖に関心があったことは初耳である。ここでいう「御木本幸吉」とは、言うまでもなく真珠の養殖とそのブランド化で富をなした人物、「御木本真珠店」の創業者御木本幸吉である。  
 三原のこの文に触れたとき、一瞬勉三は御木本幸吉と面識があったのかと思ったのであるが、その事実はなさそうである。そのことを確かめるために、何冊か御木本に関する著書を取り寄せ調べたのであるが、御木本が流浪の旅先として北海道に来た事実はつかめなかった。
 ただ、真珠の養殖ばかりでなく海産物業等も営んでいる。その中で、明治26年秋から翌年の2月頃まで昆布の取引で北海道に来ていることは間違いない。それは、源氏鶏太著「真珠誕生」の69ページ「厳寒の北海道の粗末な旅館の一室で、幸吉は、この手紙を繰り返して読んだに違いない。」とする一文が証明している。  
 しかし、この時の御木本はさまよい歩くような流浪の旅ではなく、真珠の養殖事業で増え続ける借金の督促から身を隠すような旅である。それは、御木本の妻うめの手紙が、「この年末にはお帰りなりませぬように」とするものであったことから明白である。うめは、押しかえる債権者に「主人不在で押し通す」方が気楽だというのである。御木本真珠の成功の陰には、女房のこの気丈さの輝きがあったといえるのではないかとさえ思ってします。  
 勉三から話しがそれてしまったが、明治26年は勉三にとっては忙しい年であった。前の年の12月には伊豆に戻り、帯広に帰ってきたは翌年、つまり26年の6月であった。その年の12月には函館の牛肉店の開店であった。  
 よって、限られた資料からの判断であるが、明治26年には勉三と御木本の接点はないと言わざるを得ない。  
 ただ、御木本がキモント沼に来てはいないとする証拠もない。もし流浪の心境でキモント沼に御木本が足を運んでいたとすれば、すぐ近くの勉三の牧場、生花苗牧場に立ち寄った可能性はゼロではない。  

(文責:上野敏郎)

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