上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1418回普段着のとかちミーティング


開催日 令和4年3月3日(木)
話 題 私の「依田勉三研究」[その22]
     −昔の十勝日日新聞から−
 
成功は途別水田のみか  
 三原は、「回想の依田勉三」Bの終盤で、「くり返す失敗の中でようやく光明をみとめたのは途別における水稲の成功である。それは明治の末年であり、水田百五十町歩、灌漑溝二万三千米ができた。入地以来四十五年各種の事業に投じた資本は実に二十余万円の巨額に上ったが、収益の伴はないため最後まで利子に追われ通しで、責任感の強い勉三は自分のためには田地一枚ももたず清貧に甘んじ、ひたむきに晩成社の発展に全心全霊を投入していた。」と、勉三の事業家像を語る。  
 萩原実監修・田所武編著「拓聖 依田勉三翁」(昭和44年発行)には、「晩成社は、明治32年は石狩地方から種籾(たねもみ)を入手、途別農場にて七八反歩の試作を行いかなりの成績をあげたが、36年には黒毛品種の発見により寒地に強い品種子にて37年には大豊作となり反当、五俵の収量を得五十町歩の造田に成功している。」とし、勉三の稲作への挑戦が花開いたことを記している。
増田立吉の稲作  
 ところで、明治32年の勉三の稲作の成功は十勝で最初とは言えないのである。では、十勝で最初に稲作に成功した者は誰か、それは下士幌で成果を上げた増田立吉を上げなければならないだろう。明治26年のことである。
 ただし、この増田の稲作も、明治16年に下帯広村で勉三が試みた水稲と陸稲栽培の失敗例が何かしかの参考になっていることは間違いない。その後も勉三は、下帯広村や大樹の当縁村で稲作に挑戦し失敗を重ねている。
失敗から学ぶ勉三の稲作
 さて、明治30年代に入って勉三が取り組んだ途別の稲作は、それまでのいくつかの失敗体験が活かされたのであった。
 明治25年、勉三は大樹のオイカマナイで稲作に挑んでいる。勉三の日記には5月15日「田溜池を掘る」から始まり、5月22日「苗代下種」、6月14日「稲籾蒔き」、7月9日「苗取田植」とあるが、その後の日記に「収穫あり」の記載は見つからない。
 明治26年8月27日には、「水田を見る、水下の田に三、四穂出たり」、9月7日「水田の傍側の草を刈る」ともあるが、その後日記には「収穫あり」の文字はない。失敗が予測される。それでも、途別の稲作成功の陰には、間違いなくこの失敗例が活かされたと言いたい。

(文責:上野敏郎)