上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1422回普段着のとかちミーティング


開催日 令和4年3月15日(火)
話 題 私の「依田勉三研究」[その26]
     −昔の十勝日日新聞から−
 
リク 帯広に来る  
 サヨが亡くなっておよそ2カ月後の11月10日、勉三の前妻リクが帯広に到着している。勉三の傍にいる三原青年は、そのリクを函館まで迎えに行く。三原が、十勝日日新聞にせた寄稿文から読み取れるのは、勉三自身の意志がそこに働いているように思えるのである。
 しかし、渡辺哲雄著「十勝史夜話」(中)には、「勉三の死が近づいたころ、後妻が少し前に亡くなったので、八百さんが気をきかせ、先妻のリクをこっそり呼んで死に水を取らせたという私の念押しに対する妙な発言。これはあえて伏せておこう。」(61P)とある。
 この内容は、八百が勉三に内緒でリクを帯広に呼び寄せたということである。 そのまま文章を読むならば、ある種の美談にも見えるのだが、気になるのは八百の「妙な発言」の中身だ。なぜ、渡辺は伏せたのであろうか。
 勉三は、リクが帯広に到着した大正13年11月10日の日記に「午前6時、りく、正雄来る。」と短く書いている。正雄はリクの養子である。この二人を函館まで迎えに行ったのは、勉三の日記を代筆していた三原武彦である。その三原を、勉三に内緒で函館まで迎えに出すことが果たして八百にできたであろうか、大いに疑問を持つのである。
 やはりここは、勉三の思いを受けて八百がリクに連絡を入れ、リクも勉三に会いたい思いが強く、別れた元夫ではあるが帯広に行く決意をしたと考えるべきではないかと思うのである。
 それと、「十勝史夜話」には「死に水を取らせ・・・」とあるが、勉三が亡くなったのはリクが帯広に来た翌年の12月12日である。その時の勉三の病状がどうであったかは分からないが、リクを帯広に呼んだのは勉三の死に水ではなく、病気の勉三の世話をリクに託したかったと理解すべきではないだろうか。  
掛かりつけ医の交代  
 勉三の日記を読むと、大正14年1月1日「本日より野口医師の薬法を終了。」、同年2月8日「伏古、景山医師診察に来る。」とある。
 なぜか、勉三は大正14年早々に主治医を野口医師から景山医師に変えている。理由は分からない。野口医師とは、大正5年に東1条9丁目に開院した野口俊一先生、景山医師とは、大正9年に伏古村(現西帯広)に招かれた景山与平先生のことと思う。この主治医交代については、只今調査中である。

(文責:上野敏郎)



−昔の十勝日日新聞から−



昭和55年発行「西帯広郷土史」より