上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1457回普段着のとかちミーティング


開催日 令和5年11月15日(水)
話 題 十勝野に人あり 人に歴史あり
     −そのふる里は−[10]
 特別寄稿
【 十勝の夜明けと岐阜県】―その足跡をたどる―[2]

十勝開拓の祖と刻まれる
鷲見邦司

                  とかち史談会 顧問 嶺野 侑

 道庁植民課十勝出張所の初代所長鷲見邦司は、岐阜県本巣郡合渡村出身。埼玉県文官試験に合格。同県収税局長から道庁に転じ、土地政策を担当し、1896(明治29)年、十勝に赴任した。  
 鷲見は帯広の都市計画の原型を策定し、国有未開発地処分法の運用を始めた。この法律は、開拓者が5―6町歩単位の区画に入植し、開墾して作物が収穫できるようになると、道庁の開拓成功検査を受け、無償で払い下げを受けられる制度だった。  
 これによって十勝内陸の開拓は、十勝監獄の手で大津−帯広−芽室間内陸道路の開通とあいまって、ようやく開拓者が本格的に入植するようになった。初期の入植者に木野の木野村甚太郎、士幌の美濃開墾合資会社など岐阜県人が多かったのは、鷲見の影響が大きい。  
 しかし、鷲見はそのままでの十勝の開発は百年河清を待つに等しいと考えたのか、役人を辞め、1901(明治34)年、十勝初の道会銀議員選挙に出馬、トップ当選を飾った。政治力で開拓を促進しようとし、自らも上浦幌に農場を開設した。管理人は朝日浅吉、その長男は戦後、十勝農協連合会長、道議を務めた朝日昇である。  
 ところが鷲見は、執行権のない道会議員に限界を感じたのか、一期3年で政界を引退、実業界に身を転じた。経済の血液は金融、産業の原動力はエネルギーと痛感、北海道拓殖銀行に入行し、本店鑑定課長として土地貸付制作を担当、さらに北門銀行監査役を務めながら札幌水力電気株式会社を設立、社長に就任し、本道の電化に努め、経済界で活躍した。  
 1926(大正15)年、重役会議の席上、突然、脳いっ血で倒れて他界した。58歳だった。帯広市総合体育館前に『十勝開拓の祖』と刻まれた顕彰碑がある。
 


 


鷲見 邦司 氏