上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1460回普段着のとかちミーティング


開催日 令和5年11月20日(月)
話 題 
十勝野に人あり 人に歴史あり
     −そのふる里は−[13]
 特別寄稿
【 十勝の夜明けと岐阜県】―その足跡をたどる―[5]

士幌町の開墾
美濃開墾合資会社

                  とかち史談会 顧問 嶺野 侑

 1897(明治30)年、美濃開墾合資会社が、岐阜県揖斐(いび)、本巣両郡から小作人を募集、62戸、260人が現在の士幌町中士幌に入植した。移住民の代表格は小作組頭の小椋忠左衛門、初年は食料こそ会社が支給してくれたが、裸麦にソバ粉だけ、米は商人と妊婦しか食べることができなかった。  
 しかも小作契約は、成墾の8割が会社、2割が小作人という開拓民にとっては厳しいものだった。会社側との話し合いで、5割ずつということになり、小作人の意欲は高まった。会社側は開拓の能率を上げようと2割の馬を入れたが、開拓民も秋払いで15頭を買った。  
 ところが凶作のため秋払いができなくなると、さっそく馬は債権者に持って行かれた。この悔しさをバネに、開拓民は豆など換金作物の栽培」に力を入れ、6年後、共同で金輪の馬を買うことができた。小椋忠左衛門の家の前に馬に引かれた金輪の馬車が現れると、人々は歓声を上げ喜こんだといわれる。忠左衛門は、まとめ役として力を発揮したが、昭和2年、働きざかりで没した。地域で馬の普及が進み、開拓は成功し、この移住先からは洞田家、星屋家、船戸家、杉山家など帯広を中心に各地で活躍する人たちが輩出した。
 


 


 小椋 忠左衛門 氏